あなたに降る雪
（「ＩＮ★ＰＯＣＫＥＴ」１９８６年５月号掲載）それは私がまだ若かった頃、四月も終わりだというのに身を切り裂くような寒風に、街行く人々が急ぎ足で家路に向かう夜があった。
爪先から染み込んでくる冷たさに閉口しながら、私もまた自分のアパートに帰る途中だった。
ふと眼をやった路地に、ひとつの影を認めた。
酔っているような頼りなげな足取りで裸電球の灯る電信柱の下に現れたのは、もう老人と言ってもいい男だった。淋しい明かりに照らされたその横顔には、至福、とでも言ったほうがいいような、呆けた笑みが浮かんでいる。皺の寄った口許をだらしなく弛めたその表情は、アルコール中毒か耄碌したためか、いずれにしても関りになる必要もなかったが、それでも立ち去ることができずにいたのは、老人が奇妙な仕種を始めたからである。
右の掌を上にして、眼の高さまで持っていく。そして夜空をぐらりぐらりと覚束なげに見廻している。
何か呟いていた。私のいる所まで声は届かなかったが、口の動きから、こう言っているらしい。
ヤット、ヤット、フッテキタ……。
私もつられて空を見上げた。星がふたつみっつ見えるほかは、何もない。雲も月もない。もちろん、雨も降っていなかった。
怪訝な思いで視線を戻したとき、老人が私に気づいているのを知った。
小さなスポットライトの中で私に笑いかけた老人。こちらに来るのでは、と身構えかけた私。が、彼は何かもごもごと語りかけたかと思うと反対方向に――光の届かぬ闇の中に姿を消した。
最後に老人が何を言ったのか判らぬまま、その夜の記憶は積み重ねられた歳月の隙間に挿まれ、忘れ去られていた。
それが一気によみがえったのは、私が彼と同じほど齢を重ねた後だった。
雪が、降り始めていた。
虚無の果てから降りてくる白い踊り子たち。私の髪に、肩に、胸に、安らう。
空を見上げた私の周りで、人々は同じように上を向き、そして訝しげに私を見る。仕方のないことだ。彼らには雪は降っていないのだから。
そう、これは私にだけ降る雪……。
私は人気のない裏通りへ入っていった。
もう雪は、私の上に白く高く積もっている。それを落とさぬようにそろそろと歩いた。私はこのまま、この雪の中に埋もれてゆくのだ。人はいつか、こうして雪の中へ消えてしまう。そういうものなのだから。
不意に、あの時老人が私に言った言葉が、判った。
彼のように私は、その言葉を送るべき相手に恵まれてはいない。しかし私は、もう半身を雪の中に埋もれさせながら、今あなたに同じ言葉を捧げようと思う。
――あなたにも、あなたの雪が降りますように――
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