運命の輪

(「ショートショートランド」1982年夏号に掲載)


 ピアノの弾き語りが「時の流れるまま」を最後に引っ込むと、店の中は再び有線のディスコ・ミュージックと他愛のない雑談の声で満たされた。
 大学生のコンパに使われることの多いパブ。あまり好みではない。しかし良子はここ以外に酒の飲める場所を知らなかった。典夫に誘われるままキープしたボトルも、半年経ってまだ半分にもなっていない。眼の前の黒いボトルを指ではじいて彼女は、
「こいつ、全部飲んでやろうか」
 と呟いた。
「ここ、座ってもいいですか」
 うしろから声をかけられ、良子は振り向いた。典夫、と言いかけて口を閉ざす。声も顔もよく似てはいる。が、彼ではなかった。どうかしている。良子は額を叩いた。もう酔っちゃったのかな……。
「空いてるテーブルがいくらでもあるじゃない。そっちへ行ったら」
 少し突慳貧に良子は言った。しかし相手は屈託のない笑顔で、
「でも、あなたのいるテーブルはここしかない」
「気障な台詞。よくそんなこと平気で言えるわね」
「でも、本当のことでしょ」
 良子は思わず笑ってしまった。この男、擦れているのか無邪気なのかさっぱり判らない。
「おかしなひとね、あんた。いいわ、そこ座んなさいよ」
 見れば見るほど典夫に似ている。特に眼から鼻筋にかけてはそっくりだった。兄弟だろうか、と良子は思った。しかし彼はひとりっ子の筈だ。だから親から離れる訳にもいかないし、まだ一緒になるには早いんじゃないか……ああいやだ、また思い出してしまう……。
「あんた、ひょっとして藤家って苗字なんじゃないの」
「いえ、そんなんじゃありませんよ」
 男は少し狼狽した表情で答えた。
「じゃ、なんての」
 言葉に詰まったらしく、男は顎を掻く。
「ねえ、あんた一体、何なの」
「僕はね、そう、今まで色々なものだったんですよ」
「色々なものって」
「例えば、海賊船の船長とかインドの大魔術師とか。姿なき怪盗だったこともある。逆に世界一の名探偵だったことも」
 良子は水割りのグラスを弄びながら男の言葉を聞いていた。言っていることはまるで意味不明だが、まだ少年の面影を宿している彼の瞳の輝きが好ましく感じられた。典夫も初めて会った頃はあんな眼をしていたように思う。
「で、今は何やってんのよ」
 今はね、と男は上着のポケットから一組のカードを取り出した。
「今夜はね、占い師なんですよ」
 良子は占いというのものを信じてはいなかった。誰かに占ってもらったこともない。しかし今夜は少し酔ってもいたし、相手のペースに乗せられてもいた。
「へえ、じゃああたしを占ってくれる」
「いいですとも。とんなことについて占いますか」
「そんなこと、自分で当ててみてよ。占い師なんでしょ」
「ええ、そうだな。ずはり結婚問題だ」
 良子は本当に自分の心が見透かされたような気がした。しかし、この年頃の女が悩むことといったら、まあ結婚問題と言っておけば外れっこないのだから……。
「いいわ。じゃそれ占って」
「了解。それではこのカードを一緒にかきまぜてください」
「あら、これトランプじゃないのね」
「ええ、所謂タロット・カードってやつで占い専用なんです。普通使っているトランプの原形なんですよ。こいつには色々な占いかたがあるんですが、僕は独自の方法を開発しましてね。どれでもいいから一枚抜いてください」
 良子が抜き取ったカードには、剣を手にした女性が描かれていた。
「"剣の女王"(クーイン・オブ・スウォーズ)。あなたは激しい気性の持ち主ですね。とても機知に富んでいるのだけど、そのぶん孤独に陥りやすい」
 男はそのカードを良子から受け取るとテーブルに置き、奇妙な手つきで残りのカードを切って並べ始めた。今彼に言われたことは、良子自身覚えのあるものばかりだった。でもまあ、占いなんてもっともらしいことを言うだけなんだから……。
 テーブルに十枚のカードが並べられた。ふう、と男が溜息をつく。
「どうしたの。いい占いが出たかしら」
「いえ、かなりシビアですね」
 男が差したカードには、数本の剣で刺し貫かれた男の姿があった。
「"剣の十"(テン・オブ・スウォーズ)の正位置。問題は二進も三進もいかない状態になっている。相手との精神的トラブルもあるようです。相手の男性ですが、"棒の王"(キング・オブ・ワンズ)の逆位置。厳格な家庭に育ったせいで、他人を思いやる気持ちに薄いようですね」
 ここまで当てられると気味が悪かった。典夫の家庭。典夫の性格。どちらも彼の言ったとおりなのだ。良子はもう、冗談半分に聞いてはいられなかった。
「"恋人"(ラヴァーズ)の逆位置。これが正位置なら救いがあるんだけど、もうふたりの心は離れかけてますね。でもここに"戦車"(キャロット)の正位置があるところを見ると、あなたは強引に結婚するつもりらしい。"剣の女王"らしいプライドの高さのためにね。あるいは"女帝"(エンプレス)の逆位置が示すように……」
「なによ、はっきり言ってよ」
「いえ、読み違いです。とにかくあなたがいくら我を張っても、"金貨の五"(ファイブ・オブ・ペンタクルス)の正位置。失敗します。経済的にも危ないかもしれない。それにここに"聖杯の十"(テン・オブ・カップス)が逆位置になっている。あなたの家でもこの件でいさかいがあるのではないですか。孤立無援ですね。このままではこの"塔"(タワー)みたいに、これは絵を見るだけで判るでしょう。雷で塔が吹っ飛んでしまっている。完全な破滅ですね。そして最後が"隠者"(ハーミット)の正位置。これはあなたに再考を促すカードです。もう一度冷静になって考えてみてください。一時の感情に溺れてはいけません」
 男は一気に言い募った後、気遣わしげに良子の顔を覗き込んだ。
「気を悪くしましたか」
「ええ、ちょっとね」
 氷が溶けてずいぶん薄くなってしまった水割りを、良子はくいっと飲み干した。
「あんたも、飲まない」
「いえ、僕、飲めないんです」
「だったらなんでこんな所へ来たのよ。あたしをからかいに来たの。それとも何、典夫に頼まれたの。変なこと言ってあたしにあきらめるように説得してくれとかなんとか。そうなんでしょ。はっきり言いなさいよ」
 良子の剣幕に、若い占い師はほとほと困惑の態だった。
「ちょっと、待ってくださいよ。いいですか、落ち着いてください」
「落ち着いてるわよ」
「だったらグラス振り回さないで。僕はですね、誰に頼まれたわけでもないし、でたらめな占いをしたのでもない。さっきも言ったようにもう一度考え直したほうがいいと助言しているだけなんですよ。あなたは本当は賢いひとなんだから、良く判っている筈です。今のまま突っ走ってしまったら、決して幸福になんかなれないってことぐらい。あんな男と結婚したって苦労するだけです。今のうちに手を切ってしまいなさい。僕には判っているんだから」
「どうして判るのよ、あんたなんかにっ」
 いや、それは、と男は急に口籠る。と、急に思い出したように上着の内ポケットから大きな懐中時計を取り出した。
「大変だ。もう時間がない」
 男は慌てて立ち上がり、店を出ようとする。
「ちょっと待ちなさいよ。逃げる気」
 良子も相手を引き戻そうと立ち上がりかけたが、意外に酔っているらしく、ふらふらと倒れかかった。男は彼女を危うく支え、椅子に座らせると、じっと良子の眼を見た。
「いいですか。もう一度忠告しておきます。あいつと別れなさい。それに……」
 一瞬、逡巡するような影が彼の瞳を過った。しかし、すぐに決然とした表情を戻して、
「それから、お腹の子供は始末なさい。ろくな人間には育ちませんよ」
 あっ、と良子が声を上げたときには、男の姿は消えていた。今まで遠くに聞こえていた店の喧騒が、一度に彼女を押し流そうとする。その波の中で、良子は糸を切られた操り人形のように座り込んだまま、テーブルの上を見つめた。男が忘れていったカードが開かれたままになっている。それに手を触れることが、彼女には恐ろしかった。ただ辛うじて動かした右手を自分の腹に当て、かすかなその動きを感じながら、小さく呟いていた。
「ほんとに、生まれなくていいの。占い師さん……」


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