ただ一度


(「ショートショートランド」1984年3+4号に掲載)

 今日は気分がいいから、と言う春香のたっての願いを断りきれず、私は外出を許した。勿論、私も同行した。
 陽はほとんど沈んでしまって、西の空をサルビアの色に染めている。振り返れば東の空、既に夜が訪れていた。
 春香はこの時刻の景色を一番気に入っているようだ。私の掌にすっぽりと包まれた小さな手をもどかしそうに動かしながら、今にもひとりで駆け出していきそうな気配だった。頬に興奮のためか少し紅が差し――例の微熱のせいではないかと私は案じていたが――瞳も夢見るように輝いていた。
 こんなにも生き生きとした春香を見るのは、本当に久しぶりのことだ。私は内心の憂慮に眼を伏せ、務めて明るい様を装いながら、ときおり娘の口から飛び出すいたいけな問いに応じていた。
「いまないてるの、なんのこえ?」
「あれは……金糸雀だな。どこかの家で飼っているのが、逃げ出したんだろう」
「あっ、あのとんでいったの、あれかしら」
「いや、あれは雀さ」
 時告丘(ときつげおか)公園に出た。三色菫の植えられた日時計とベンチだけが据えられたつましい公園。三十年前、ひとり娘が生まれた時に私が造ったものだ。
「疲れないか」
「ううん」
 春香は大きく首を振る。だが呼吸がいくらか乱れている。私はベンチに娘を座らせた。
 ここからは、街のほとんどが見渡せる。大通り。高層ビル。宇宙港(スペース・ポート)……。
「きれい!」
 感きわまった呟きが洩れた。振り向くと、春香は街ではなく、空を見上げていた。
 今夜は新月だった。三月の星々は月の光にも街の光にも毒されることなく、満天にきらめいていた。
「ねえ、あのほし、なあに?」
「あれは……シリウスだな。おおいぬ座の一等星だ」
「とおいの?」
「ああ、遠い」
「パパのいった、かせいより、とおいの?」
「比べものにならないさ。地球から火星まではたかだか八千万キロ。シリウスまでは八・七光年もある」
「はちてんななこうねん?」
「光が届くのに八年と八ヶ月かかるってことさ」
「じゃあ、いまあたしがみてるのは、あたしとおなじにうまれたひかりなのね」
「そう、春香といっしょに生まれて、春香に今日会うために旅をしてきたんだ」
「おおきいのね、うちゅうって」
「大きいとも。ご覧、シリウスとあとふたつの一等星が大きな三角形を作ってるだろ。“冬の大三角形”だ。頂点になるオリオン座のペテルギウスは五百光年。もうひとつ、こいぬ座のプロキオンは十一光年の距離にある。オリオン座のもうひとつの一等星リゲルは六百――」
 春香は、私の話を聞いていなかった。
 うつむいたまま、自分の指先を見つめている。
「どうした、気分でも悪いのか」
 春香は首を振る。
「じゃ、眠いのかな」
「ちいさいのだわ、あたし」
 娘は泣きそうな声で、呟いた。
「とおっても、ちいさいのだわ。ほしはとおってもおおきいのに、うちゅうはもっとおおきいのに。あたしなんか、すなつぶみたいにちいさいの」
 春香はあまりに広大無辺な空間を前にして、途方に暮れているのだった。
 宇宙、という概念を頭に描く時、誰もが囚われてしまう虚無感の罠。私も星の海の航海を始めたばかりの頃、この罠に陥ったことがある。自分自身の卑小さを強引なまでに見せつけられ、声も出せないほどの敗北感に、精神を押し潰されてしまった、あの頃。
 同じような思いに苦しめられている娘を見るのは、とても辛い。
 私は春香の肩に手を置き、耳許に語りかけた。
「春香、確かに人間は小さいさ。あの星に比べたらね。でもね、おまえは知っているかしら。星も人間も同じ物で出来てるってこと。酸素、水素、炭素。そんなものが組み合わされ、からみ合って、ひとつの星、ひとりの人間を造っているってこと。そして、この世にたったひとつしかないってことでは、ひとつの星もひとりの人間も同じ意味を持っているのだよ。この時の流れの中で、たったひとつ、たったひとりしか存在しないんだ」
「たった、ひとり?」
「そうだ」
「わたしは、ここにいるあたししかいないの?」
「そうだ」
 答えた刹那、私の胸を鋭い痛みが走った。たったひとり、ただ一度だけの……。
 私は春香を抱きしめた。
「おまえはひとりだけ、ただひとりの、私の娘だ。私の大好きな、春香だ」
「あたしも、パパ、だいすきよ」
 そう答えてくれた春香の体は、すでに火のように熱くなっていた。

「お気の毒です。既に手の施しようがありませんでした」
 医師は事務的な憂い顔で、言った。
「正直な話、我々にはまったく理解できないのです。要因と思われるものは、細胞育成以前に遺伝子の段階で完全に排除してあるのですが」
「それでも……春香は死んだ」
 私は空になったグラスを見つめながら、呟いた。
「もう、何人目だと思う?」
「……三人です」
「そうだ、三人だ。私はもう三回も、ひとり娘の死に立ち会わねばならなかった」
 テーブルの上の写真に眼をやった。
 私と、妻と、春香。三人が写っている。私の肩車ではしゃいでいるのは、ひとり目(オリジナル)の春香だ。
「さっそく、再生(クローン)の手続きにかかりたいと思いますが」
「よしてくれ。もう何度やっても同じことだ」
「しかし希望はあります。うちの若い所員が面白いアイディアを持っていまして、うまくいけばあと十年は寿命が――」
「春香をモルモットにする気か!」
 テーブルを思いきり叩いた拍子に、写真が倒れた。
「あと十年だと!? 十年の寿命が二十年になったところで、なんだというのだ。やっぱり春香は死んでしまうんだ。これ以上辛い思いをするのはまっぴらだ」
 医師が怯えた眼で、私を見ていた。
「怒鳴ってすまん。だが私はもう疲れてしまった。春香の細胞データはすべて抹消してくれたまえ。あの子を静かに眠らせてやりたい」
「しかし……」
「これは命令だ。この市の市長としての」
「……判りました」
 医師は一礼して、退出しようとした。
「ああ、それからもうひとつ」
「は?」
「私の再生登録も破棄するから、処理しておいてくれ」
「それは、できません! あなたはこの市になくてはならないお方です。もしものことがあったら――」
「私のクローンに代行させる気かね」
 私は笑った。
「私よりも有能な人間は、この先いくらでも生まれてくるさ。人生なんぞ一度だけで充分だ。ただ一度だけでね」


ホーム][著作リスト][ショートショート][不定期日記][リンクの部屋