保健室
（「ショートショートランド」１９８１年夏号に掲載）京ブタの奴をからかってやろう、と最初に言い出したのは、宮本の方だった。
ぼくはあまり気が乗らなかったのだけど、そんなことを言ったりしたら、
「へえ、おまえ、あいつに気があったのか」
とかなんとか茶化されるに決まっているのだから、仕方なしに手を貸すことにしたんだ。
でも、宮本がこの頃、京ブタ――林京子にするいたずらは、ちょっと度が過ぎているのじゃないかと思う。座ろうとしている椅子を横から蹴飛ばしてひっくり返らせたりするのはともかく、鞄の中にトカゲの死体を入れたり、昼食の時に熱いお茶の入ったやかんを、知らないふりして顔に押しつけるのなんか、もう拷問じゃないだろうか。
それに宮本ときたら、京ブタをいじめている時、いやらしい笑い方をしているんだ。ものすごく残酷な笑い方。だから他のいらずらならいっしょにやっても面白いと思うんだけど、これだけはいやだ。好きになれないな。
だけど、どうして宮本があんなにも京ブタをいじめるかって言うと、京ブタの方にも責任があると思う。あだ名の通り、彼女は太っているうえに背が低い。しかも色が黒いから、ブタはブタでもバークシャー種の方だ。
しかし容色よりなによりも宮本につけいらせているのは、彼女の態度だ。なんでも彼女は小さい頃から大学の医学部教授だとかいうオヤジさんひとりの手で育てられたという話だから、そんなことからあんな引っ込みがちの陰気な性格になったのかもしれないけど、他の女生徒ならいたずらされると逆にはり倒されたりもするのに、京ブタの場合、何をされても無抵抗で、ただ黙ってうすら笑いを浮かべているだけ。まるで手応えがないんだ。だから宮本のいたずらも、どんどんエスカレートしてゆくんじゃないだろうか。
そんなぼくの考えなんかてんでおかまいなしで、宮本は放課後になると、ぼくを保健室まで連れていってしまった。
ほかの学校じゃ授業をさぼりたい生徒が、なんやかやと仮病を使って保健室に押しかけてくるという話を聞いたことがあるけど、この学校ではそんなことはほとんどない。逆にみんなから嫌われているぐらいだ。特に女生徒なんか、ひとりじゃ絶対に中に入りたがらない。だいたい保健室なんて薬臭いし、壁に貼りつけてある人体解剖図は気味悪いし、あまりいいところじゃないんだけど、ほんとにみんなが恐がっているのは、奥にある人体骨格の標本。模型なんかじゃない。本物の人骨なんだ。
こいつは京ブタのオヤジさんが学校に寄付してくれたもので、オヤジさんが作った骨格標本の中でも最高の出来なんだそうだ。そんなのが部屋の隅に立っているんだから、誰だっていい気はしないと思うな。
この保健室の掃除は各クラスの保健委員が順番でやることになっている。今日はぼくらのクラスが当番なんだけど、男子の保健委員が休んでいるので、掃除に来るのは女子委員の京ブタひとりなんだ。彼女には掃除を手伝ってくれる友達もいない。もしいたって、あんな「ガイコツ屋敷」に誰が好んで行くもんか。毎年、保健委員を選出するだけでも苦労するのに。まあ、今年は京ブタが立候補したから楽だったけど。あいつ、たしか去年も保健委員じゃなかったかな。
そろそろと保健室の戸を開けてみる。誰もいなかった。保健の先生は職員室らしい。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の片隅、薬品棚の端に、それはあった。
実際はぼくらと変わらない背丈だろうけど、鉄柱台に吊り下げられているので、ぼくらを見下ろすような形になっている。生きているときにはいろいろなものを見ていた筈の眼球はもうなくて、そこにはふたつの凹みがあるだけだった。
それでもぼくは、その白骨に見つめられているような気がして、背筋が寒くなった。
宮本が白骨の下あごに指をかけた。きれいな歯並びを見せて口が開く。指を放すと、パクッと音を建てて閉じてしまった。あごの関節にスプリングが仕掛けてあるらしい。
宮本はそれを確かめると、ぼくの方を向いて言った。
「さあ、始めようや」
鉄柱台の下には車輪がついているので楽に動かせる。宮本とぼくはそれをゆっくりと入口の所まで持っていった。
台の振動につれて、骨だけの手足が右に左に、ぼくの目の前で踊るように揺れる。
「京ブタの奴、よく保健委員になんか立候補したな」
ぼくは声の震えを気取られないように注意しながら、言った。
「あいつ、バカだからな」
宮本の言い方は身も蓋もなかった。でも、そいつは違う。京ブタは成績だけは優秀で、学校でもトップのはずだ。
宮本が京ブタを憎んでいるようにみえるのも、案外そのへんが原因かな、とも思う。もちろん口に出しはしなかったけど。
僕らは骨格標本を戸の真正面に置いた。何も知らないで戸を開ければ、白いガイコツに正面衝突するというわけ。でも、それだけでは宮本は満足しなかった。彼は持ってきた糸を標本の下あごにくくりつけ、もう一方の端を鉄柱台の下にくぐらせた。糸を引くと、白骨がカタカタと音をたてて笑う。ひどく悪趣味ないたずらだな。
宮本は糸の仕掛けがうまくいくのを確かめると、標本のあばら骨を一本一本指で撫でながら、
「知ってるか？ この骨、女のだぜ」
ぼくはいささか驚いた。
「ほんと？ どうして判るんだ？」
「骨盤の形を見れば、判るさ」
宮本は背骨のあたりを下から上へ撫で上げた。
「何歳ぐらいだのたのかなあ、彼女」
ぼくは「彼女」と呼ばれた白骨を見た。すると、今まで気味が悪いばかりだったその姿が、急になまめかしく感じられて、それに骨を舐めるようにして撫でている宮本の指が、ひどくおぞましいように思われて、慌てて顔をそむけてしまった。宮本はそんなぼくの反応まで楽しんでいるみたいだったけど、急に僕の胸をつかんで、
「おい、こっちに隠れていよう。そろそろ来るはずだ」
と言って、保健の先生の机の陰に隠れた。ここなら糸も引っ張りやすいし、仰天する京ブタの顔も見られる。
「さあて、あいつ、どんな顔するかな」
宮本はもう得意満面だった。でもぼくは、いたずらを楽しむ気にはとてもなれず、ついさっきから胸の奥でチリチリと動き始めた思いに囚われていた。
彼女、目の前にいる白い骨。どこで生まれ、育ったのだろう。名前は？ 思いつく限りの名を並べてみても、どれも似合わない。名前は骨に与えられるものではなく、そのまわりの肉と皮に与えられたものだからだろうか。何歳まで生きたのだろう。骨や歯を鑑定すればわかるのだろうけど、ぼくにはできない。何年か何十年か、とにかくぼくと同じ背丈になるまで生きて、その間に彼女にはどんなことがあったのだろう。今は骨だけになってしまったあの指は、本のページをめくったり、編物をしたり、そんなことはすべて経験しているのだろうか。元の姿を想像すらできないあの足は、アスファルト道路を、テニスコートを、芝生の上を跳ね廻ったのだろうか。それから、そう、成人していたなら結婚もしていたかもしれない。どんな家庭を作っていたのか。子供はいたのだろうか。その子が大きくなるまで、彼女は見守りつづけることができたのだろうか。それとも。
判っているのは、どんな形でか、死が彼女の前に現れて、そんな彼女の持っていたさまざまなものから、彼女を引き離してしまったということ。そして彼女の骨は抜き出され、ぼくの目の前にいるということ。彼女はこうなることを望んだのだろうか。こうして馬鹿な中学生のいたずらの道具にされることなど考えもせずに、自分の骨を標本にすることを希望したのだろうか。それとも……。
「来たぞ」
宮本の声が、ぼくの妄想を破った。戸に手が掛り、ゆるゆると開けられる。宮本は糸を握って身構えた。
京ブタはその場に棒立ちのまま、動けないようだった。薄暗いながらぼくには、彼女の顔から血の気が退いているのが判る。
宮本が糸を引いた。白骨が、全身を揺らしながらカタカタと笑った。
京ブタは口に当てていた手をゆっくりとおろし、そして、目の前の白骨を手を取ると、詰問するように言った。
「どうして出てきたの、ママ」
［ホーム］［著作リスト］［ショートショート］［不定期日記］［リンクの部屋］