『ミステリなふたり』お試し版


幻冬舎・刊
定価1600円+税


 ひとを呪わば殺人事件

           太田忠司

     1

「今回の事件はね、じつはもう、犯人は逮捕されてるの」
「へえ、よかったじゃない」
「犯行の動機もはっきりしてるし、犯行時刻も犯行方法も明らかなのよね」
「ほうほう」
「もちろん被害者の身許もわかってるし、犯人は犯行を認めてる。このまま起訴から裁判まで何の問題もなく進むでしょうし、裁判官が下す判決もだいたい見当がつくわ。それくらい見通せてる事件なわけ」
「でも、それにしちゃ景子さん、何か不満がありそうな顔してるけど、どうかしたの?」
 京堂家リビングのテーブルで妻と差し向かいになり、自分で焼いたシナモンクッキーを口に運びながら、新太郎が訊いた。
「そこなのよねえ……」
 ティーカップに注がれた紅茶を銀のスプーンで掻き回しながら、景子は溜息をついた。
 彼女は愛知県警捜査一課の警部補である。犯罪捜査の第一線に立ち、ときに男性刑事たちを顎で使いながら凶悪な事件に挑んでいる。その態度は沈着冷静の極みで、古参の刑事たちも一目置かざるをえないくらいの剛腕ぶりを見せることもある。おかげで付いた渾名が「鉄女」あるいは「氷の女」という、あまりありがたくないものだった。彼女の鋼のように強い意思や氷のように冷たい言葉は、犯罪者のみならず同僚刑事や時として上司にも向けられるからだ。
 かつてある事件の捜査会議の場で、景子が捜査状況の報告をしている最中に居眠りをしかけた一課の課長を、相手が子供なら泣き出したろうと思われるくらい容赦のない言葉を浴びせて目覚めさせたことがあった。その場に居合わせた同僚刑事たちは全員、ひきつけを起こした赤ん坊のように全身を硬直させた。武家社会並みに上下関係がはっきりしている警察内においてこの行為は、切腹を覚悟しなければできない類のものだったからだ。だが彼女はそれを、部下の刑事に対するのとまるで変らない態度でやってのけたのだった。
 起こされた課長はそれ以来、景子を露骨に避けるようになった。どうやら彼女の一喝は課長の敵愾心を刺激するどころか、より深いところにある根源的な感情――恐怖を引き起こしたらしい。程なく彼が他県警に配置替えとなったのも、本人の強い希望があってのことだと噂された。一流大学を卒業したキャリア組で、いかにも線の細そうなお坊ちゃんタイプの人物だった。景子が鉄や氷に例えて噂されるようになったのは、その頃からだ。
 しかし彼女自身は、そのような評価など気にもとめず、ただひたすら自分の職務を遂行していった。冷徹で剛腕なだけなら、周囲からは反感しか招かないが、景子には揺るぎない実績が伴っていた。現場においての判断の的確さには誰もが納得し、部下や同僚たちも彼女の指示にはまず間違いなく従っていた。単に命令に背くと恐いから、というだけではない。景子は指揮官としての素質を備えていたのだ。
 その上最近では、推理力についても鋭さを増してきたと評判になっていた。どんな不可解な状況に遭遇しても、翌日警察に出勤してきたときには見事に謎を解き明かし、犯人を指摘してしまうのだ。一晩眠れば事件を解決――そんな活躍から景子には、また新たな渾名が追加された。
 いわく「カミソリ女」
 しかし景子は、この渾名だけは内心不本意であった。剃刀に比されるのが厭なのではない。剃刀のごとき名推理に対して賞讃を受けるべきなのは自分ではなく、眼の前にいる彼女の夫――京堂新太郎であると思っているのだ。彼女の話を聞き、事件の隠された真相を暴いてみせるのは、他ならぬ彼だった。
 その夫の前では、景子は鉄でも氷でもなかった。年上で甘えん坊の妻。警察関係者が聞いても絶対に信じないだろうが、それが彼女のもうひとつの顔である。
「新太郎くん、例によって話聞いてくれない? わたしね、気になって気になってしかたないのよ。でも他の連中はあんまり気にしてないみたいだし……」
「どんなこと?」
 新太郎は先を促した。最初のうちは事件の話を聞いて自分なりの推理を言うことについて、若干ためらうところがあったのだが、最近ではすんなりと妻の相談に応じるようになってきた。新太郎の本業はイラストレーターで、普段はひとりきりで家に籠って仕事をしている。そのせいもあって妻の話を聞くことも彼にとっては楽しみのひとつになっているのは事実である。しかし本当のところは、これも景子の教育の賜物もかもしれない。
「犯人も被害者も動機も犯行時刻も犯行方法もわかってる。つまり5W1Hすべてが明らかなんだよね? なのにまだ、謎があるの?」
「あるのよ、それが」
 景子は鼻に皺を寄せた。
「新太郎くんが今言ったのは、犯人側の5W1Hよね。でも問題は被害者側のほうなの」
「どういうこと?」
「つまりね、わたしが悩んでるのは『被害者はなぜ、殺されることができたのか』ってことなの」
「……言ってる意味が、よくわからないんだけど」
 新太郎が困惑したように眉を寄せた。景子は頬杖をついたまま、言った。
「被害者――桝田愛子はね、殺されるはずがない場所で殺されてたの」


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