『レンテンローズ』お試し版

富士見ミステリー文庫・刊
定価460+税
ISBN4-8291-6160-4

「どうして、みんな、私のこと嫌いなのかな……？」
　美咲｛みさき｝が訊いた。小首を傾げ、口許に淡い笑みを浮かべて。
「誰も嫌ってないってば」
　香緒里は言う。焦りが喉元まで込み上げてくる。声をあげることしかできない自分が、とても情けない。
「みんな、美咲のこと、好きだよ。みんな、そうだよ」
　美咲は藍色の空に向けていた視線を、香りに戻した。そして、言った。
「嘘」
　笑っていた。錆の浮いたフェンスに背中を預け、美咲は空を見上げた。天頂近くはすでに、夜になっていた。
「誰も、わたしのことなんて好きじゃない。香緒里だって、そうだよね。わたしみたいな人間、いなくてもいいって思ってるよね？」
「思ってないって。ほんとだよ。だから……だからもう、降りてきてよ」
　ひどく、暑かった。首の後ろあたりをじりじりと焼かれているような感じだ。しかしその熱は外からではなく、香緒里の内部から噴き出しているものだった。焦りの気持ちが、彼女を燻っている。
　フェンスは、校舎の屋上を取り囲むコンクリート塀の上にあった。高さは約一メートル。美咲がもう少し後ろへ体を反らせば、重心は簡単にずれ、彼女の体はフェンスの向こうに倒れ込む。そして、十メートル下の中庭に、叩きつけられることになるだろう。
　どうしたらいいのか、わからなかった。誰かを呼んでくるべきだろうか。しかし自分が眼を離している隙に美咲がフェンスを越えたら。そう思うと動くこともできない。
「わたし、香緒里の友達かな？」
「友達だよ。絶対、友達だよ」
「それも、嘘。香緒里はわたしのこと、友達だなんて思ってない。だって、一緒にいても話してても、香緒里はいつも何か別のこと考えてるもの。わたしじゃなくて、別の誰かと一緒だったらよかった。そう思ってるんだよね、いつも」
「違う！　わたし、そんなこと考えてない！」
「じゃあ、何を考えてるの？」
「それは……」
　香緒里は言葉に詰まる。違うんだと、そう言いたかった。考えているのは、わたしがいつも考えているのは……。
「結局、香緒里もみんなと同じ。嘘ばっかり。でもいいの。みんながそうなんだから。世界中のみんなが、嘘つき。みんなが、わたしのこと、嫌ってる」
「……」
「だから、いいの。そんな世界、わたしのほうから……」
　不意に言葉が途切れ、美咲の体が仰け反った。制服のスカートが広がり、彼女の形のいい脚が天を差し、そして消えた。
「……！」
　動くことさえできなかった。その瞬間、香緒里は声にならない悲鳴をあげながら、膝を折り、屋上のコンクリートの上に倒れた。
　空も雲も何もかも、遠くなっていった。

　眼を開いたとき、最初に見えたのは煤けた天井と蛍光燈だった。手を動かすと布の感触がある。どうやら布団かベッドに寝かされているらしい。
「あ、眼が覚めたみたい」
　声がして、よく知っている顔が覗き込んできた。
「侑子｛ゆうこ｝……？」
「もう、心配させないでよ。ずっと眼が覚めなかったら救急車呼ぼうかって言ってたところなんだから」
　ジャージ姿の侑子が、頬を膨らませた。
「救急車……どうして……？」
　訊きかけたとき、もうひとつの顔が視界に現れた。
「大丈夫？」
　その顔を見たとたん、香緒里は飛び起きた。
「美咲！」
「どうしたのよ？　なんか怖い顔しちゃって」
　美咲は怯えるように眼を丸くして、身を退いた。
「美咲、大丈夫なの？　怪我は？」
「怪我？　どうしてわたしが怪我するの？　心配してるのは、こっちのほうなんだけど」
「保健室で大声をあげないでちょうだい」
　そう言いながらベッドに近づいてきたのは、学校の保険医だった。彼女は香緒里をベッドに寝かせると、彼女の顔を覗き込んだ。
「意識はどう？　しっかりしてる？」
　と訊いた。
「え？　……ええ」
　香緒里は曖昧に答える。
「気を失う前のこと、覚えてる？」
「気を失うって……わたしが……？」
　言われてから気がついた。自分は失神したのだ。校舎の屋上で、美咲が飛び降りるシーンを眼にして。
「美咲、怪我しなかったのね。よかった……」
　言われた美咲は、複雑な表情をしている。
「ねえ、さっきから変なこと言ってるけど、わたしが何か、したわけ？」
「何かって……美咲、飛び降りたじゃない」
「どこから？」
「校舎の屋上から」
「嘘でしょ」
　美咲は眼を丸くする。
「そんなこと、してないよ。するわけないじゃん」
「でも……」
「もし本当に飛び降りてたら、とっくに死んでるわよ。わたし、死んでるように見える？」
　美咲は体を一回転してみせた。どこも怪我をしている様子はない。
「気を失ったときのショックで、混乱してるんだわ」
　侑子が言った。
「香緒里、覚えてないかもしれないけど、あんたとわたしと美咲の三人で屋上にいたら、急にあんたが気分が悪いって言いだして、そのまま気を失っちゃったの。だからわたしたちで保健室に連れてきて、ベッドに寝かせたってわけ。これでわかった？」
「そんなの……わたし、覚えてない」
「だから、ショックで混乱してるんだってば」
「……違うわ。ちゃんと見たの。美咲が塀によじ登って、フェンスに寄りかかって、そのまま後ろに……」
「それは変よ」
　すかさず美咲が言った。
「もしわたしがフェンスに寄りかかってたとしたら、きっと服に錆が付いちゃうと思うんだけど」
「そうそう、あのフェンス、ものすごく錆びちゃってるもんね」
　侑子が同意する。美咲はもう一度体を回転させた。
「ほら見て。錆、付いてる？」
「……ううん」
「わかったでしょ。香緒里が見たのは、夢」
「夢……」
「本当にそうなのよ。香緒里は気を失ってる間に、変な夢を見たの。それだけのこと」
「そうそう」
　侑子も同意する。
「そんな……わたしは……！」
「保健室で騒がないでちょうだいよ」
　保険医が注意する。
「ちょっと低血圧気味ね。でも、心配は要らない。もう少し休んでから、帰るといいわ」
「……はい」
「じゃ、わたしたちも帰りましょうか」
　侑子が言った。
「そうだね。もう心配ないみたいだし」
　美咲は頷く。手を伸ばし、香緒里の額を撫でた。そして呟く。
「ごめんね……」
「え？」
　何のこと？　と訊き返そうとする香緒里を避けるように、美咲はベッドを離れていった。侑子も一緒に消え、すぐに保健室のドアが開閉する音が聞こえた。
「じゃ、落ち着くまでわたしも付いててあげるから、ゆっくり休みなさい」
　保険医が言った。
「そうだ、家のほうに連絡したほうがいい？」
「……いいえ」
「親御さん、心配しないかしら？」
「いえ、まだ誰も、家にはいませんから」
「……そう。ならいいけど」
　そう言うと、保険医もベッドを離れた。
　香緒里は天井と蛍光燈を見つめた。
「あれが……夢？」
　呟いてから彼女は、ゆっくり首を振った。

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