祥伝社ノン・ノベル刊定価838円+税
ISBN4-396-2073905
祥伝社ノン・ノベル刊
定価838円+税
ISBN4-396-2073905
プロローグ
山吹、木賊｛とくさ｝、水浅葱｛みずあさぎ｝、練色｛ねりいろ｝、丹色｛にいろ｝、鳩羽色｛はとばいろ｝。
すべては一冊の本が教えてくれた名前。鮮やかな色見本の下に添えられた難解な、しかし美しい文字。
色の名前を書き記したその本は、少年の宝物だった。頁を開いて色とその名を見ていると、時間が経つのも忘れてしまった。父さんが戯れにくれた本。でもこれが、父さんにもらった一番の贈り物。
鈍色｛にびいろ｝、茄子紺｛なすこん｝、灰桜｛はいざくら｝。
幼稚園で使ったクレヨンにも、小学校で使いはじめた絵の具にも、こんな名前の色はなかった。限られた十二色。同級生たちは世界のすべてを十二色で塗りわけている。桜の葉も楓の葉も、みんな同じ緑。若葉色も萌葱｛もえぎ｝も常磐色｛ときわいろ｝も、彼らは知らない。
少年だけは写生の時間、黄緑色に黒を混ぜて苔色を作ろうとした。公園の木の幹を覆う苔は、まさにその色をしていたからだ。
しかしどうしてもうまくいかなくて、結局色を混ぜ合わせているだけで時間が過ぎ、無知な教師に叱られた。
「パレットで遊んでちゃ駄目。ちゃんと絵を描きなさい」
少年は口答えしなかった。菫の色も桔梗の色も同じ紫だと言った先生に、何がわかるというのだろう。
街中の景色に本で見た色を見つけるたびに、少年はかすかな興奮を覚えた。
校舎の壁は梅鼠色｛うめねずいろ｝。今日の空は、露草色｛つゆくさいろ｝。あの犬の毛は、丁子色｛ちょうじいろ｝。
ひとつひとつの色に名前を与える。そうすることですべてを自分のものにできたような気がしていた。
色の名前を書き記したその本は、少年に魔法の力を与えてくれた。この世界にある何もかもを、支配することができる。名前の魔法を唱えるだけで。
あの先生の服は抹茶色。だから先生は僕のもの。あの車は納戸色。だから車は僕のもの。
今日は母さん、どんな色の服を着ているだろう。その色を見ないで当てられたら、母さんも僕のもの。
人通りのない帰り道、少年は考える。母さんが好きな色は赤。いや、もっと強く、鮮やかな……そう、紅の色。前に母さんが、そう言っていた。紅色が、好きだと。だから母さんの唇はいつも、きれいな紅に染まっている。
母さんには、紅色が、似合っている。
でも、紅色の着物は持っていなかった。どうしてだろう。着てみればいいのに。
息もできなくなるような、鮮やかな紅の衣に袖を通す母の姿を思うと、少年の心臓は早鐘を打つ。
母さん、紅色の着物を着ていてほしい。もし着ていたら、今日の母さんは、僕のもの。
父さんのものじゃ、ない。
ランドセルを揺らし、少年は家に辿りつく。
玄関を開け、ただいま、と言おうとした。しかし、三和土に並んでいる黒い革靴を眼にしたとたん、少年の口は閉ざされた。
父さんが、いる。
こんな時間に家にいるなんて、滅多にないことだ。少年は妙な胸騒ぎを覚えながら、そっと靴を脱ぎ、上がり框に足をかけた。
足音を忍ばせ、廊下を渡る。家の中は、静かだった。
かすかに気配がした。畳を擦る音。大きい部屋だ。少年はより慎重な足運びで、廊下を曲がった。
大きい部屋、というのは少年だけの呼び方だった。中庭に面した十二畳の仏間で、普段は使われていなかった。少年はこの部屋が好きではなかった。薄暗く、黴臭いからだ。死んだ人の写真が飾られているのも厭だったし、大きな仏壇も薄気味悪かった。
仏間の障子戸は、閉められていた。その向こうでまた、畳を擦る音がした。衣擦れの音と、何かを刷くような音も。
障子戸は、下のほうにガラスが嵌められていて、中が見えるようになっている。少年は腰を屈め、仏間の中を覗き込んだ。
父さんがいた。
千歳茶｛せんざいちゃ｝の着物を着ている。家にいるとき、よく着ている着物だ。背中を向け、うずくまっていた。
その向こうに、赤いものが見える。それと、細く白い、足。
少年は息を呑む。見てはいけないものを見ていることに気づく。しかし眼を背けることはできない。更によく見ようと、屈んだまま体を滑らせる。
父さんの前に横たわっているのは、母さんだった。紅い着物を着ている。
紅だ。母さんは、紅を着ていた。しかし予想が当たった喜びなど、涌いてはこなかった。
母さんが纏っているのは、薄い紅色の襦袢一枚だ。仰向けになった母さんの体に絡まり、縛めているかのようだった。母さんの烏羽色の髪が畳の上に広がり、襦袢の紅と艶やかさを競っている。乱れた裾と襟元から、母さんの白い肌が溢れていた。太股の白さ、喉元の白さ、眼を伏せた母さんの、その顔の白さ。
それは正確には「白」ではない。でも少年の本にある「肌色」でもなかった。母さんの肌の色に一番近いのは、やはり、白。
そして唇は、紅の色。ぷっくりと柔らかな唇が、紅に濡れている。
母さん。
少年は思わず声を漏らしそうになる。生き人形のような母さんの姿が、少年の鼓動を早くする。
父さんと母さんの間に、白い紙が置かれていた。父さんの右手が動き、紙の上に筆を走らせている。
母さんを、描いている。
父さんの視線は、紙の上と、母さんの体を行き交う。恐い眼で、母さんを見つめている。
不意に、父さんが筆を置いた。手を伸ばし、母さんの襟元に触れ、一気に広げた。
少年の息を吸い込む音が、廊下の空気をわずかにそよがせた。
母さんの、白い乳房。その頂から麓にかけて、紅い水脈が流れていた。
父さんの口許が、ほころびる。溢れるように流れる紅い色に、父さんの眼が潤む。
ああ、と少年は声にならない吐息を洩らす。母さんは紅色の服を着ていた。だけど、母さんは、僕のものじゃない。
父さんが、また、自分のものにしてしまった。
少年は拳を握り、口に押し当てる。そうしないと、泣き出してしまいそうだった。
母さんは、僕のものじゃない。
その思いが、いつまでも少年を苛んだ。
（続きは、買って読んでね）